武者絵の名作を追う 第1回 国芳「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」——彫り物の豪傑が売れた理由

文政10年(1827)頃、江戸の絵草紙屋の店先に、背中一面に花を彫った男たちの絵が並びはじめます。描いたのは、それまでろくに名前を知られていなかった30歳の絵師でした。

まず、この背中を見てください

歌川国芳「通俗水滸伝豪傑百八人之一個 浪子燕青」。上半身裸の男が背を向けて立ち、背中から腰、太腿まで一面に花と唐草の彫り物が入っている。画面左上では相手の男がさかさまに宙へ投げ上げられている
歌川国芳「通俗水滸伝豪傑百八人之一個 浪子燕青」文政10〜13年(1827〜30)頃。画面右上の題箋にシリーズ名と「浪子燕青」、左に「一勇齋國芳画」の落款が入ります。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

浪子燕青(ろうしえんせい)という豪傑です。上半身をあらわにして背を向け、腰から太腿まで彫り物でびっしり埋まっている。左上でさかさまに宙を舞っているのが対戦相手で、この図が描いているのは、燕青が泰安州の相撲興行で無敵をうたわれた大男を投げ飛ばす、水滸伝でも人気の高い一番です。相手の体は画面の上のほうで弧を描き、足を天に向けたまま落ちてくる途中です。投げの決まった瞬間ではなく、体がまだ回りきっていない一瞬を切り取っている。だから、見ているこちらの目のなかで相手が落ちてくる。

題箋(だいせん)の「浪子」は綽名(あだな)、「燕青」が本名です。このシリーズはどの図もこの形で、綽名と本名を並べて一人を名乗らせます。武将の名を覚えるための一枚でもあった、ということです。

彫り物の線と、着物の線は、別物として彫られている

背中を拡大します。

浪子燕青の背中の部分拡大。細い線を密に重ねたぼかしのような濃淡で、花や渦を巻く雲のような文様が肌の上に彫り出されている
同図の背中の部分拡大。花と、渦を巻く雲のような文様。輪郭を太く囲まずに、細い線の粗密だけで濃淡を作っています。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)を部分拡大

ここで手を止めてほしいのは、この文様が「色で塗られていない」ことです。着物の柄なら、輪郭線を彫った主版の上に、青なら青、赤なら赤の色版を重ねて面を埋めます。ところがこの彫り物は、色の面がほとんどありません。細い線を寄せたり離したりして、その粗密だけで濃く見せたり薄く見せたりしている。ベタで塗ってしまうと肌の丸みが消えるからです。肩の丸み、背中のくぼみ、腰のひねり——その上に文様が乗っているように見せるために、彫師は線の間隔のほうを変えている。

同じ画面に、比べる相手がちゃんと写り込んでいます。

浪子燕青の右肩から着物にかけての部分拡大。左半分は細い線だけで描かれた肩の彫り物、右半分は青地に白い波文、朱地に雲文という、輪郭線と色面で作られた着物の柄
同図の右肩まわり。左が肌に入った彫り物、右が脱ぎかけた着物の柄です。着物のほうは青と朱の色面が輪郭にきっちり収まり、彫り物のほうは色面を持ちません。同じ一枚の中で、彫師と摺師が二種類の文様を彫り分け、摺り分けています。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)を部分拡大

右の着物は、青地に白い波、朱地に雲。どれも輪郭の内側にきっちり色が収まっていて、遠目にも「布の柄」に見えます。左の肩は線だけ。この二つが隣り合っているから、彫り物が肌の上にあることが分かる。版木を彫る側から見れば、一枚のなかで方針の違う仕事を二つ抱え込んだことになります。工程そのものの話は浮世絵ができるまでと摺師の仕事にまとめてあります。

「一個」は、一人という意味です

シリーズ名は「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」、つうぞくすいこでんごうけつひゃくはちにんのひとり、と読みます。「一個」で「ひとり」。つまり題そのものが「百八人のうちの一人」と言っていて、一図につき一人、大判の縦一枚に全身を収めるのが決まりでした。版元は日本橋両国広小路米沢町の地本問屋・加賀屋吉右衛門。

この売り方が効いています。全部そろえないと意味が分からない絵ではなく、一枚が一人で完結している。気に入った豪傑を一枚だけ買って帰れるし、次に店へ寄ったときに別の一人がいれば、また一枚買うことになる。揃物(そろいもの)という商売の型については名作シリーズ全図鑑に書きましたが、百八人という数字を最初に掲げたこのシリーズは、その型のいちばん露骨な例だと思います。買い手にとっては、終わりの見えない収集の入口です。

もっとも、百八人はそろいませんでした。刊行は文政10年(1827)頃から天保7年(1836)頃までと見られていて、現在まとまって確認されている図数は74図です(大貫菜穂の研究論文、および太田記念美術館が2016年の「国芳ヒーローズ〜水滸伝豪傑勢揃」展で「74図が確認される本シリーズ」としています)。看板の数字に実態が追いつかないまま終わる——「冨嶽三十六景」が46図に伸び、「名所江戸百景」が119図になったのとは逆向きの、これも揃物によくある結末です。

元ネタは、20年前から江戸にあった

水滸伝そのものは、国芳の発見ではありません。曲亭馬琴が書き起こし、途中から高井蘭山が引き継いだ読本『新編水滸画伝』が文化2年(1805)に初編を出していて、その挿絵を描いていたのは葛飾北斎です。刊行は天保9年(1838)まで続きました。江戸の読書好きは、国芳の一枚が出るより20年以上前から、北斎の線で水滸伝の豪傑を見ていたことになります。

研究では、国芳の図と北斎の挿絵に構図の重なりがあることが具体的に指摘されています。魯智深が松を折る場面、朱武の服装や顔つきなど、突き合わせると近い。ただ、国芳が北斎の絵をどこまで直接に見ていたのかは、本人の証言が残っていないので断定はできません。

それでも、当たったのは読本の挿絵ではなく一枚絵のほうでした。読本の挿絵は文章に従います。ページをめくる速度で見られ、話の進行に合わせて場面を割り当てられる。対して一枚絵は、一枚で立たなければならない。文章がないぶん、絵師は「この一人の、この瞬間」だけで買わせる必要があります。全身を大きく入れ、体をひねらせ、彫り物で肌を埋め、相手を画面の外へ飛ばす。燕青の一枚に詰め込まれた工夫は、全部その要請から出てきたものです。

豪傑が机を振り上げ、蛇が絡む

歌川国芳「通俗水滸伝豪傑百八人之一個 白日鼠白勝」。胸から腕まで彫り物で覆われた大男が、板状の台を頭上に振りかぶり、もう片方の手で相手の顔をつかんでいる。緑と褐色の蛇が何匹も体と台に絡みついている
歌川国芳「通俗水滸伝豪傑百八人之一個 白日鼠白勝」文政10〜13年(1827〜30)頃。振り上げた台、鷲づかみにされて叫ぶ相手、体に巻きつく蛇。三つの動きが画面の対角線上に積み上がります。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

白日鼠白勝(はくじつそはくしょう)。振り上げた台は画面の上端に届き、右手は相手の顔を鷲づかみにして、口を開けた相手の顔がそのまま悲鳴になっています。そこへ蛇です。緑と褐色の蛇が腕に巻き、台の上を這い、足もとまで垂れている。人体の動きと、蛇という別の運動が同じ画面で重なるので、目の置きどころが定まりません。

この落ち着かなさが狙いです。国芳の武者絵は、静止した立ち姿をほとんど描きません。国芳のページでは三枚続を一枚の巨大な画面として使う話を書きましたが、大判一枚の中でも同じことをしている。枠に対して斜めに体を置き、はみ出させ、その周りに動くものを足す。絵草紙屋の店先で他の絵と並んだとき、これは強い。

「刺青の豪傑たち」は、実は全員ではありません

このシリーズはたいてい「全身刺青の豪傑を描いて当たった」と紹介されます。ところが公開されている図を並べていくと、その紹介は少しずれてきます。

歌川国芳「通俗水滸伝豪傑百八人之一個 智多星呉用」。星の散る濃紺の夜空を背に、金の龍を織り出した紺の道服を着た人物が、天球儀のかたわらに立っている
歌川国芳「通俗水滸伝豪傑百八人之一個 智多星呉用」文政10〜13年(1827〜30)頃。梁山泊の軍師です。肌はほとんど出ておらず、見せ場は星空と天球儀。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)
歌川国芳「通俗水滸伝豪傑百八人之一個 跳澗虎陳達」。深い藍色の夜を背景に、甲冑をまとった武将が朱塗りの得物を構え、傍らに黒い馬が立っている
同「通俗水滸伝豪傑百八人之一個 跳澗虎陳達」文政10〜13年(1827〜30)頃。こちらは全身を甲冑で包み、画面全体が深い藍に沈みます。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

智多星呉用(ちたせいごよう)は梁山泊の軍師で、道服姿の学者です。彫り物どころか、肌がほとんど出ていない。背景に星を散らし、天球儀を置いて、頭で戦う男だと示している。跳澗虎陳達(ちょうかんこちんたつ)は甲冑で全身を覆い、画面は夜の藍で沈んでいます。上の二人と並べると、同じシリーズとは思えないほど画面の温度が違う。

百八人という設定は、要するに配役表です。素手で暴れる男もいれば、軍師も、女の豪傑もいる。国芳のページに載せた一丈青扈三娘は、鎧に矢を何本も受けて踏みとどまる女性の豪傑でした。彫り物の一枚だけを見て「そういうシリーズ」と思い込むと、この幅を見落とします。並べて初めて、国芳が百八通りの見せ場を作ろうとしていたことが分かる。

絵が先か、彫り物が先か

彫り物の流行に火をつけたのはこのシリーズだ、という説明はよく見かけます。根拠として引かれるのが、天保4年(1833)の『花江都歌舞妓年代記続編』の一節です。中村座の項に「此節歌川国芳画にて水滸伝豪傑のにしき画大に流行して東都侠者彫ものにせし也」——国芳の水滸伝の錦絵が大流行して、江戸の侠客が彫り物を入れるようになった、とある。刊行のさなかに書き留められた同時代の記録なので、これは強い証拠です。ただし、この一文が言っているのは「同じ時期に両方が流行っていた」ところまでで、どちらが原因でどちらが結果かまでは書いていません。

もう一つよく引かれるのが、飯島虚心『浮世絵師歌川列伝』の「刺青の下画を画くに妙を得たり」——国芳は彫り物の下絵を描くのがうまく、天保年間には彫り物を入れたい男たちが下絵を頼みに来た、という記述です。おもしろい話ですが、これは飯島虚心の没後、昭和16年(1941)になって初めて本になった伝記で、国芳の同時代人が書いたものではありません。研究のほうでも、国芳が実際に下絵を描いていたかどうかは明確になっていないと留保がついています。だから、ここは「国芳が江戸の彫り物ブームの真ん中にいた」までにしておきます。

天保の改革より、14年早い

武者絵の説明でいちばん取り違えられやすいのが、ここの順番です。天保の改革で役者絵と美人画が禁じられ、行き場を失った絵師が武者絵へ流れた——という話自体は間違っていません。ただ、通俗水滸伝はその前です。

当たったのが先、規制は後 通俗水滸伝豪傑百八人之一個の刊行 天保の改革の出版統制 彫り物の流行を記した年代記 文政8年(1825) 天保元年(1830) 天保6年(1835) 天保11年(1840) 弘化2年(1845)
通俗水滸伝の刊行(文政10年〜天保7年頃)と、天保の改革の出版統制(天保12〜14年)の位置関係。あいだに14年あります。丸印は天保4年(1833)、『花江都歌舞妓年代記続編』が彫り物の流行を書き留めた年。

刊行が終わってから、5年ほど置いて統制が来る。順序としては、国芳がすでに「武者絵の国芳」になっていたところへ、役者絵と美人画が使えなくなった絵師たちが後から合流した、という形になります。天保13年(1842)の統制で禁じられたのは役者の似顔と遊女・芸者の絵で、武者絵はそこに含まれていません。検閲と改印の回に書いたとおり、規制は「何を描いてよいか」の地図を書き換えます。書き換わった地図の上で、いちばん広く空いていた土地がすでに国芳のものだった、ということです。

この時期に国芳が仕掛けた、古典の姿を借りて幕府をからかう一連の絵については奇想の浮世絵にまとめました。あちらの奇想も、出発点はこの水滸伝の豪傑たちです。

今、この一枚を手にするなら

通俗水滸伝は幕末に繰り返し摺られ、現存もそれなりにあるシリーズです。公開されている値のつき方を並べると、幅がかなり広い。東京の浮世絵専門店では、このシリーズの一図が29万円から55万円あたりで販売中と掲示されています。一方、骨董買取業者が示す本シリーズの買取参考価格は数万円から10万円程度、英国のギャラリーには一図が520ポンドで売れたという記録があります。

同じシリーズでこれだけ開くのは、状態と摺りの時期の差もありますが、それ以上に「誰から誰へ渡る値段か」が違うからです。買取査定額と、専門店の店頭価格と、海外ギャラリーの成約額は、そもそも別の数字です。この見方については同じ絵なのに値段が違う理由に書きました。国芳の周辺で現実的に狙える一枚の話は手を出しやすい浮世絵にあります。

上の金額は、公開されている販売ページ・買取価格表・ギャラリーの成約記録から拾ったものです。買取査定額と小売価格と成約額は性質の違う数字なので、同じ列に並べて相場とは呼べません。摺りの時期や状態の判定も、写真からはできません。
題箋に「百八人之一個」と刷りながら、確認されているのは74図。国芳は残りの34人を描かないまま、天保7年(1836)頃にこのシリーズを離れます。版元は天保元年(1830)頃から並行して「本朝水滸伝剛勇八百人一個」も国芳に描かせていて——今度は八百人を名乗りました。数字を大きくするほうへ行ったわけです。

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