武者絵の名作を追う 第5回 川中島——七十年で、同じ場面がこう変わる

同じ合戦を、三人の絵師が七十年かけて描いています。三枚目の落款には「故人春亭一跡 広重摸写」とある。死んだ絵師の図柄を写したと、自分で書いてある一枚です。

語り継がれた一瞬

川中島は、武田信玄と上杉謙信が信濃をめぐって何度もぶつかった場所です。絵師が繰り返し描いたのは、そのうち軍記物で語り継がれた一場面——謙信が単騎で信玄の本陣へ乗り入れ、太刀を振り下ろす。信玄は手にした軍配でそれを受ける。

この場面が実際にあったかどうかは、ここでは扱いません。絵師にとって大事だったのは、それが誰でも知っている型だったということです。連載の冒頭で書いたとおり、武者絵の客は筋を知っています。知っている型を、どう出すか。

一枚目——明和のころ、女の姿で

礒田湖龍斎の中判錦絵。小川のほとりの縁台に、紫の着物の女が腰かけて柄の長い団扇を突き出し、緑の着物の女がそれを受けるように身をそらしている。左上に題箋、背景は淡い緑と灰色
礒田湖龍斎「風流やつし武者鑑」明和6年(1769)頃。中判。題箋の下に小さく「しんげん」「けんしん」とあります。署名は「湖龍斎 春広画」で、湖龍斎が初期に使った号です。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

いちばん古いのがこれです。合戦の絵に見えません。

小川のほとりの縁台に女が二人。右の女が柄の長い団扇を突き出し、左の女が身をそらして受けている。団扇の面には赤い地に紋が入っていて、これが信玄の軍配にあたります。左の女が手にしている黒い柄のものが、謙信の太刀にあたる。

「やつし」というのは、格の高い題材を当世の姿に置き換える遊びです。武将を町の女に、軍配を団扇に、戦場を川辺の縁台に。元の場面を知っている人にだけ通じる仕掛けで、知らない人には涼みの絵にしか見えない。それでいい、という作りです。

色も淡い。緑と薄紫と朱で、血の気配がまるでない。武者絵として見ると異様ですが、明和のころの浮世絵は春信を筆頭にこういう気分でした。

二枚目——文化6年、俯瞰の大軍勢

勝川春亭の大判三枚続。画面中央を青い川が横切り、左岸に弓を構えた兵の列、手前に槍と矢が交錯する乱戦、右に馬上の武将。空にはピンクの雲の帯、奥に舟をつないだ橋と行軍の列
勝川春亭「川中島の合戦」文化6年(1809)。大判三枚続。川が画面を横切り、両岸に軍を配して、手前で乱戦を描いています。 米国議会図書館蔵(制限なし)

四十年後。判型が中判から大判三枚続になり、視点が上へ上がりました。

画面のまん中を青い川が斜めに横切ります。左岸に弓を構えた列と旗指物、右奥には舟をつないだ橋と、そこを渡っていく行軍の列。手前では槍と矢が交錯して、倒れた武者が重なっている。右手に馬上の武将がいますが、画面を支配してはいません。

一騎打ちを大きく描く絵ではないのです。合戦全体を高いところから見せて、その中のどこかで二人が向き合っている、という作り。買った人は、画面を舐めるように見て人物を探すことになります。第4回の相馬の古内裏が三枚を一体で使い切ったのとは、まるで逆の使い方です。

空にピンクの雲の帯が横に流れているのが、この時期らしいところだと思います。凄惨な場面のはずなのに、空だけは春の色をしている。

三枚目——天保のころ、風景画家の合戦

歌川広重の大判三枚続。中央上に題箋。左の山上と右の平地に軍勢が展開し、あいだを青い水面が広がる。右奥に朱塗りの橋と陣屋の列、左右に白と紺の旗指物、右手前に馬上の武将
歌川広重「信刕川中嶋合戦之図」天保14年(1843)頃。大判三枚続。左下の落款は「故人春亭一跡 広重摸写」、その脇に版元「佐野喜」の印があります。 シカゴ美術館蔵(CC0 / パブリックドメイン)

さらに三十年あまり。描いているのは、東海道と名所江戸百景の広重です。

合戦図なのに、まず山が来ます。中央の水面は湖のように広く、対岸に灰色の山並みが連なって、その手前に松が一本。旗指物と甲冑がなければ、名所絵として通りそうな画面です。人物は小さく、代わりに地形が大きい。この人が風景で食べていた絵師だということが、隠しようもなく出ています。

色も違います。春亭の淡い青とピンクに対して、こちらは藍と朱をはっきり効かせている。旗の白、母衣の朱、水の藍。摺り比べ 第6回で見たベロ藍の時代に入っていることが、水の色ですぐ分かります。

「模写」と、自分で書いてある

この三枚目でいちばん驚いたのは、絵そのものより落款でした。左下にこうあります。

故人春亭一跡、広重摸写。

亡くなった春亭が遺した図柄を、広重が写しました——と、売り物の絵に堂々と刷ってある。「一跡」は、遺された仕事という意味です。現代の感覚だと盗作の告白に読めますが、当時はこれで署名として成立していたわけです。むしろ「あの春亭の図だ」と言えることが、売りになったのだと思います。

ここで気になるのは、二枚目の春亭とこの三枚目が、同じ構図ではないことです。川が画面を横切ること、両岸に軍を置くこと、奥に橋を通すこと——型は共通しています。でも山の形も、人物の配置も、旗の色も違う。広重がどの図を写したのかは、私には分かりませんでした。春亭も川中島を一図しか描かなかったとは限りません。

いずれにせよ、春亭が亡くなってから二十年ちかくたっても、その図柄が商品として通用したということです。売れた図柄を別の絵師に描き直させるのは、版元の側から見ればごく普通の判断でした。

七十年で変わったもの、変わらなかったもの

三枚を通して見ると、変わったところがはっきりします。判型は中判から三枚続へ。視点は縁台の高さから鳥の高さへ。色は淡い緑と紅から、藍と朱へ。人物の数は二人から数百人へ。

変わらなかったものもあります。三枚とも川があります。三枚とも、決着を描いていません。湖龍斎の団扇は受けたところで止まり、春亭の乱戦には勝敗がなく、広重の両軍はまだ向かい合ったままです。

この連載で繰り返し出てくることですが、武者絵は決着の一歩手前を選びます。誰もが結末を知っている題材で、絵師が売れるのは、その一歩手前の緊張だけなのだと思います。

湖龍斎の制作年は所蔵館の記載が「1769年頃」で、署名は初期の号「春広」です。広重の一枚も所蔵館の記載が「1843年頃」で、天保14年前後としか言えません。「故人春亭一跡 広重摸写」の落款は画像で目視して確認しましたが、写された元の図がどれかは特定できていません。ここで並べた春亭の一枚がその元図だとは書いていない点に注意してください。川中島の一騎打ちが史実かどうかについては、この記事では扱っていません。
春亭の名前に「故人」と付いていることが、この落款の面白いところです。生きている絵師の絵を写せば揉めるが、亡くなっていれば筋が通る、という感覚があったのかもしれません。ただ、これは私の推測です。当時の版元がどう考えていたかを示す記録には行き着けませんでした。

次回は、芳年の武者へ

第6回は月岡芳年です。血を描いた時期と、静けさへ転じた時期。同じ絵師の中で振れ幅がいちばん大きい人を扱います。

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