買えない一枚を、見に行く——初摺の赤富士と写楽の大首絵
このサイトでは、数千円から本物の浮世絵が買えるという話をずっとしてきました。国周の役者絵、後摺の名所絵、骨董市の一枚。手が届く話ばかりです。でも浮世絵の世界には、どう頑張っても買えない一群が確かに存在します。買えないなら関係ない話ではなく、買えないからこそ見る目を持って対峙したい一群です。
手が届く1枚を探す楽しさと、手が届かない1枚を見に行く楽しさは、実は別物ではありません。値段の理由を自分の頭で考える練習を積んでおくと、ガラスケースの向こうにある1枚の前に立ったときに見える情報量がまるで変わってきます。この記事は、そのための予習です。
値段の桁が、ひとつまるごと違う理由
北斎の「神奈川沖浪裏」が数千円のポスターとして売られている一方で、2023年3月には同じ図柄の1枚がニューヨークのオークションで276万ドル、当時の相場で約3億6000万円で落札されています。この落差の仕組みは同じ絵なのに値段が違う理由で扱った通り、初摺・後摺・後版・復刻・レプリカという段階の違いです。この記事で扱いたいのはその先、値段の階段のいちばん上、実質的に「買えない」領域です。
誤解しやすいのですが、値段を決めているのは「何枚摺られたか」ではありません。当時数千枚摺られた絵でも、いま驚くほどの高値がつくことがあります。決め手は、摺られた枚数ではなく良い状態で生き残った枚数です。色が抜けず、額装のために縁を切られず、虫に食われてもいない。その条件をくぐり抜けた個体だけが、初摺級として評価の土俵に上がります。
摺られた枚数と、生き残った枚数はまったく別
この絞り込みを段階で並べると、値段が跳ね上がる理由が見えてきます。
摺られた枚数
人気の高い図柄は、初摺・後摺をあわせて当時数千枚単位で摺られたと推定されているものも少なくありません。
現存が確認された数
火事、震災、戦争、単なる紙の劣化。190年前後の歳月を越えて確認できる個体は、そこから大きく数を減らします。
初摺級の状態
現存する中でも、色が抜けず、縁を切られず、シミや虫穴もない一枚はさらに絞られます。
実際に市場に出る数
その中から所蔵者が手放す意思を持ち、オークションや画商を経て実際に市場に出るものは、さらにひと握りです。
※バーの長さは実際の統計値ではなく、段階を追うごとに数がどれだけ絞られていくかのイメージです。個々の作品で実数は大きく異なります。
「神奈川沖浪裏」の現存数については摺り比べで書いた通り、大英博物館の研究者による調査で113枚、その後さらに2枚が確認されています。数千枚が百数十枚になり、そこから初摺級の状態のものだけを絞ると、数はもっと少なくなります。写楽の大首絵にいたっては、この後でふれる1点は、アート・インスティテュート・オブ・シカゴの解説によれば現存が確認されているのは世界で9点です。これが「買えない」の正体です。骨董市を何十回まわっても、この段の絵には出会えません。見に行くしかないのです。
この階段のどこに立っているかで、同じ図柄でも値段は桁違いに動きます。下の段にいる限り、いくら熱心に探しても上の段の1枚には行き当たりません。だからこそ、上の段にある1枚は「探す」ものではなく「見に行く」ものだと、私は考えるようにしています。
凱風快晴(赤富士)——初摺をどう見るか
北斎「冨嶽三十六景 凱風快晴」、通称・赤富士です。鑑定の見分け方をここで教えるつもりはありませんが、見るときに意識しておくと絵の見え方が変わる箇所はあります。空のぼかしの色合い、富士の斜面に乗る赤の濃淡、そして稜線を刻む鱗雲のような細かい版の彫りです。
下の2枚は、どちらもシカゴ美術館が所蔵する「凱風快晴」です。同じ美術館の所蔵品でありながら、空の青の深さと富士の斜面の色にはっきりした差があります。専門家の間では、初期の摺りは赤みが抑えられ、摺りが進むにつれて赤が強く出る、と指摘されることがあります。ただしこの2枚の差がどちらの理由によるものかは、画像だけでは断定できません。摺りの時期の違いなのか、経年による退色なのか、あるいはその両方なのか。だからこそ、実物の前に立って自分の目で確かめる価値があります。
空の色が藍系に見えるか、水色系に見えるか。富士の斜面が朱色に近いか、サーモンピンクに近いか。この2点だけでも、並べれば誰の目にも違いは見えます。
もう一つ、意外と見落とされがちなのが空を横切る鱗雲です。細い帯がびっしり並ぶこの雲の彫りは、1本の版木にこれだけの本数の細線を欠けさせずに彫り切る、彫師の腕の見せどころです。摺りが進んで版木が傷むと、この細い帯の端からわずかに輪郭がぼやけていきます。空の色の違いに気を取られがちですが、雲の帯の輪郭がどれだけシャープに残っているかも、あわせて見てほしいポイントです。摺りごとの違いをもっと詳しく知りたい方は摺り比べと初摺・後摺の話にまとめていますので、あわせてどうぞ。早い時期の摺りとして知られる個体はギメ東洋美術館(パリ)などが所蔵しているとされますが、この記事ではどちらが早い摺りかを判定するつもりはありません。違いを見つけて、自分の目で驚くこと。それがここでの目的です。
写楽の大首絵——雲母摺をどう見るか
寛政6年(1794)、忽然と現れて10か月足らずで姿を消した東洲斎写楽。その代表作が、役者の上半身を大きく切り取った大首絵です。用語集でも軽くふれた雲母摺(きらずり)——雲母の粉を膠で溶いて背景に摺り込む技法——は、写楽の大首絵でとりわけ効果的に使われています。
この技法の面白さは、図録や画面ではまず伝わりません。雲母は光を反射する鉱物なので、照明の角度によって背景の見え方がまったく変わるのです。真正面から見ると、ただの黒っぽい灰色の背景に見えます。ところが少し立ち位置をずらし、照明の光を斜めに受ける角度に体を動かすと、背景全体がざらりと銀色に光り出す瞬間があります。美術館でこの絵に出会ったら、正面で立ち止まらず、左右に数歩動いてみてください。背景が生きているように光る瞬間に出会えるはずです。
背景の光り方の次に見てほしいのが、刀の柄をつかむ手です。指の一本一本に力が入り、爪の白さまで彫り分けられています。目は大きく見開かれてはいません。むしろ細められ、口はへの字に結ばれている。写楽というと誇張された表情を思い浮かべがちですが、この1枚は静かな緊張感で迫ってくるタイプの大首絵です。手と口元、そして背景の光。この3点を見比べるだけで、5分は平気で立っていられます。アート・インスティテュート・オブ・シカゴの解説によれば、この図柄の現存が確認されているのは世界で9点。国内では東京国立博物館が重要文化財として所蔵しています。
他に「見るしかない」もの
買えないけれど見るしかない一群は、もちろんこの2点だけではありません。個人的に見に行く価値があると思う3点を挙げます。
神奈川沖浪裏の初摺
世界でいちばん有名なこの1枚も、初摺級となると話は別です。下のシカゴ美術館所蔵の1枚は、空が淡い桃色に染まっています。摺り比べで並べたメトロポリタン本・シカゴ本のどちらとも、また違う表情です。見るポイントは、波頭を縁取る輪郭線の太さと、空の色。同じ版木から生まれたはずの1枚が、こんなに違う顔を見せてくれます。
歌麿の雲母摺大首絵
写楽と並んで雲母摺の傑作を残したのが喜多川歌麿です。「婦女人相十品」は、女性の仕草から人相を読むという趣向の大首絵シリーズで、灰色の雲母地に人物だけを大きく浮かび上がらせています。見るポイントは指先。煙管を持つ指の力の抜け具合が、写楽の刀を握る手とはまるで違う柔らかさで彫られています。同じ雲母摺でも、写楽は緊張、歌麿は弛緩。並べて見ると技法の使われ方の違いがよく分かります。
春信の初期錦絵
鈴木春信は、それまで数色刷りが主流だった浮世絵を、多色摺りの「錦絵」に押し上げた絵師です。裕福な武士や商人が仲間内でやり取りした絵暦(えごよみ)の交換会から、この技術革新が生まれたと伝わります。見るポイントは色数の多さそのものです。後年の華やかな錦絵と並べると地味に見えるかもしれませんが、この淡い色数の重なりこそが、木版多色摺りという技術が産声を上げた瞬間の記録です。
どこで見られるのか
国内では、写楽「石井源蔵」の重要文化財指定品を東京国立博物館が所蔵しているように、大物クラスの初摺級は主要館の収蔵庫に眠っていることが多いものです。どの館が何を得意にしているかは全国の浮世絵美術館ガイドにまとめています。今回登場したシカゴ美術館をはじめ、赤富士や写楽の優品は海外の館にも数多く所蔵されていて、その事情は海外の浮世絵美術館で書きました。
ただし、所蔵していることと、今日その1枚が展示されていることはまったく別の話です。これほどの希少品は、退色を避けるためになおさら展示期間が短く抑えられます。展示替えの仕組みはなぜ浮世絵展はすぐ展示替えするのかで詳しく書きました。狙って見に行きたい1枚があるなら、訪問前の確認は必須です。現地で会えなかったときのために、高精細画像で自宅から見比べる方法は家で浮世絵を見るにまとめています。買えない1枚でも、画面越しになら何度でも会いに行けます。
買えないものを見る目を持つと、買えるものの見え方も変わる
赤富士の空の色を見比べ、写楽の雲母地が光る角度を探した後で、手もとにある後摺の1枚をもう一度眺めてみてください。見え方が変わっているはずです。この線はどのくらい摩耗しているか、この赤はどの時代の色料か。買えない一級品を基準に据えると、自分の1枚を見る解像度が自然と上がります。買うための知識と、見るための知識は、思っている以上に地続きです。手もとに置くの各記事も、そのつもりで読んでもらえると嬉しいです。
つづけて読む
- 同じ絵なのに値段が違う理由 — 初摺・後摺・後版・復刻という5段階
- 摺り比べ 第1回 神奈川沖浪裏 — 2枚を並べて違いを指差す連載
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