摺り比べ 第4回 亀戸梅屋舗——同じ版木から、三つの空が出てくる
3枚並べます。空の上端に藍の帯がある一枚、紅がまるごと抜けた一枚、そして帯のない一枚。同じ図柄なのに、季節も時刻も違って見えます。
臥龍梅の枝が、視界をふさぐ
亀戸の梅屋敷にあった臥龍梅(がりょうばい)という名木です。地を這うように枝が広がる姿から龍にたとえられ、江戸の梅の名所として人が集まりました。広重はその幹をいちばん手前に、それも画面の真正面に立ててしまいます。おかげで肝心の梅林は幹の向こう側で、柵に並ぶ見物客も豆粒ほどにしか見えません。名所を描くはずの絵で、名所を隠す。この構図の思い切りについてはいつか江戸百景をで書きました。ゴッホが油彩で模写したのも、この大胆さに反応したからでしょう。
この図柄は版木の寿命と摺り部数の回でも2枚並べています。あちらの狙いは「同じ版木でここまで違う」を見せることでした。ここではもう1枚足して、違いが画面のどこに出ているかを部分ごとに拡大します。
一枚目——藍の帯と、燃える紅
まず上の1枚の空を拡大します。
上端に置かれた藍の帯は、一文字ぼかしと呼ばれる摺り方です。版木の縁に沿って絵具を帯状に置き、外へ向かって拭き取っていく。詳しい手つきは摺師の仕事に書きました。ここでは藍が2〜3センチほどで抜け、そのすぐ下から紅が始まります。上が夜で、下が夕焼け。梅を見に来た人の頭の上で、空が二段に分かれている勘定です。
地面は青みの強い緑。空の紅と正面からぶつかる補色の関係で、画面がびりびりします。これが江戸で売られたときの見え方に近いのだとしたら、亀戸の梅見はずいぶん派手な行事だったことになります。
二枚目——紅が、まるごと無い
藍は残っているのに、紅だけが無い。ここで展示替えと退色の話が効いてきます。上端の藍はベロ藍(プルシアンブルー)で、光による褪色をほとんど受けません。対して紅花から採る紅は、浮世絵の色料のなかでもとりわけ光に弱い。同じ紙の上で、丈夫な色だけが残り、弱い色だけが抜けた——そう読むと、この空の説明はつきます。
裏づけになりそうな手がかりが、右の題箋にもあります。「名所江戸百景」の朱は、一枚目に比べてはっきり淡い。つまり赤系の色が全体として力を失っている一枚で、そのなかでも空の紅がいちばん先に、いちばん徹底的に抜けた。もっとも、これは私が2枚の画像を見比べて言っているだけです。実物を計測したわけではないので、断定はしません。
ついでに、この一枚は紙の上端が絵の際で切られていて、一枚目にあった改印が残っていません。額装や貼り込みのために縁を切り詰められた個体で、その話は切られた浮世絵、切られていない浮世絵に書いてあります。
紅の無いこの空は、冬の名残の曇り空に見えます。地面の緑も一枚目より黄みが強くて、下から芽吹きが始まったばかりという色をしている。梅は早春の花ですから、この一枚のほうが暦には忠実です。
三枚目——上端に、藍が無い
ここが今回いちばん面白いところです。ベロ藍は光でほとんど褪せません。それなのに上端の藍が丸ごと無いということは、褪せたのではなく、この一枚には最初から入れなかった、と考えるほうが筋が通ります。図題の札「亀戸梅屋舗」の地色まで緑ではなくクリーム色になっているので、色版の使い方そのものが違う。
どちらが早い摺りか、という判定はここでもしません。摺る時期によって色版が省かれることも、逆に足されることもあります。第1回から同じ立場です。ただ、藍を入れなかったおかげで、この一枚の空は上から下まで途切れずに一色でつながっています。天頂まで焼けている、昼と夕方のあいだのような空です。幹の色が黒でなく温かい灰色に寄っているのも効いていて、画面全体がやわらかい。
地面の緑も、同じ緑ではありません
版木は同じ、輪郭も寸分違わない。それでも、片方は水底のような青緑、もう片方は日の当たる草の緑です。江戸の緑は多くの場合、藍と黄を混ぜて作りました。配合が少し動けば、青寄りにも黄寄りにも転びます。空の色が摺るたびの裁量だったのと同じことが、足もとでも起きているわけです。
この2枚を離れて眺めると、一枚目は夕暮れの冷たい地面、二枚目は昼の草地に見えてきます。空だけが季節を決めていたのではなかった、ということです。
三つの季節
並べ終えて残るのは、同じ一図から三つの時間が出てきたという事実です。一枚目は日の落ちぎわ、上に夜、下に夕焼け。二枚目は紅の去った曇天と、芽吹きの緑。三枚目は天頂まで朱に染まった、風のない昼下がり。どれも安政4年(1857)の同じ版木から生まれ、170年近くを別々の場所でくぐり抜けてきた紙です。
市場での値段はこの3枚で違うはずです。ただそれは同じ絵なのに値段が違う理由で書いたとおり、希少さと状態の話であって、絵として眺めたときの面白さの順位ではありません。名所江戸百景は摺りの時期を選べば個人の手にも届くシリーズで、そのあたりの現実的な話はいつか江戸百景をにまとめてあります。手に入れた一枚がこの三つのどれに近いとしても、それはその一枚だけの空です。
つづけて読む
- 摺り比べ 第1回 神奈川沖浪裏 — 世界一有名な波を2枚並べた回
- 摺り比べ 第3回 猿わか町よるの景 — 夜の絵で摺師の手が出るところ
- 摺り比べ 第5回 東京高輪鉄道蒸気車走行之全図 — 明治の赤は、こちらと逆に動きません
- 展示替えと退色 — なぜ紅だけが先に消えるのか
- 版木の寿命と摺り部数 — 初摺と後摺はどうして生まれるのか